1/YASAKA 小松原修さん

過去:僕のイメージする弥栄ではなくなってきてるなっていうのが、寂しい気持ちになったので。その土地とか集落のみんなで一緒になってできることをやりたいなっていうのと。

永浦 じゃあ、過去の話に移っていきたいと思います。幼少期はどんな子でしたか?

小松原 あ~わんぱくだったと思いますね。丁度昨日もそういう話をしてたんですけど。蛇なんかしっぽを持ってぐるぐる回しながら友達に投げて遊んでたりとか。あと昔でいうチャンバラごっこみたいな。竹を切って木刀みたいな自分らで作って、それで戦いごっこみたいな。あとは、弓矢を作ったりね。

永浦 弥栄小学校ですか?

小松原 ええとね、安城(やすぎ)小学校だった。昔は。

永浦 何人くらいいたんですか?

小松原 僕の同級生は20人。

永浦 今でも関わりはありますか?

小松原 あるね。まあ弥栄にいる人もいるし。でも、ほとんど残ってないかな。

永浦 幼少期に一番好きだったものとかありますか?

小松原 釣り。

永浦 釣り?

小松原 やっぱり釣りが好きですね。

永浦 川とかで?

小松原 川とか海とか。親父も釣りするので、小学校ぐらいから大体休みの日になると釣りに行こうって言って。でも親父も田んぼやってたから。農業とか草刈りが終わってからねとか、そんな感じでしたね。

永浦 何の教科が得意でしたか?小学校の時。

小松原 なんだろう。やっぱ体育とかじゃないかな?体を動かすことが好きだったので。柔道もちっちゃい頃やっとったし、野球もやってたし。

永浦 色々やってたんですね。

小松原 そう。でも、一番目覚めたのはやっぱりバスケットボール。

永浦 何歳からやられてたんですか?

小松原 僕が小学校の5年生くらいからスラムダンクが出て。そこからバスケットって面白いってなって。

でも、友達とか学校の人らはサッカーとか野球とかが好きだから、休み時間とかは僕ともう一人バスケットが好きな子がいて、大体その子と体育館でやっとったっていうのがあるね。

永浦 習い事とかでやってたわけではない?

小松原 習い事はね、ないんよ。習い事でいうと野球と柔道。あとそろばんとか。

永浦 そろばん、!

小松原 そろばんもねあったんよ、昔。あと習字とか。ちょっとやっとったね。

永浦 小学生の時の一番の思い出とかありますか?

小松原 思い出っていう思い出はないんだけど、学校の前に川があるんですよ。そこで昔は釣りをしてたんですよ、休み時間に。ご飯が出てそれを餌にして、塀のところからピッて投げて釣って遊んでて。

その時に結構でかい、この辺でいうと「ゴリ」とかっていう「カジカ」っていう魚がいるんですけど、30㎝くらいのめっちゃでっかいやつを釣ったのがいい記憶。しかも釣りなんよね。学校とか関係ないんだけど。

永浦 何年生くらいの時ですか?

小松原 4年生くらいだったかな。あの時はね釣りとか全然してもよかったし、釣り竿とか学校においてあったんよね。授業の一貫でみんなで釣り大会しようとか。なんか学年とかでなかった?なんとか学習みたいな感じでみんなで一緒にできること、何かドッチボールしようみたいな。 

永浦 ああ~ドッチボールとかはあったかもしれない。

小松原 その中でうちらのクラスは釣りしようっていうのがあったんよ。

永浦 面白いですね。今と修さんが小学生くらいの時で弥栄の風景は結構変わりましたか?

小松原 昔の校舎は壊して、今の新しい校舎が出来てるから全然違うっちゃ違うんだけど。学校っていうだけじゃないけど、やっぱちょっと堅苦しいよね。

永浦 今?

小松原 今。社会のルールとかそういうのも厳しくなったりとか、昔はそんなことなかったんよね。

それが正解っていうとまあそうでもないかもしれないけど。でもなんかどうなんだろうね。もうちょっと、そこまでガチガチに固めなくてもいいんじゃないかなとは思うんだけどね。

永浦 ありがとうございます。じゃあ次は中学校に。中学校は弥栄中ですか?

小松原 そう、弥栄中。

永浦 中学校はどんな子でしたか?

小松原 中学校はね、そのままだね。運動も好きだし。あ、でも英語はすごく苦手。英語と国語は苦手。でも算数は好きだった。数学とか。

永浦 そろばんの成果が。

小松原 あるんかな分からんけど。数字は好きだった。

永浦 中学は何部でしたか?

小松原 バスケ部。

永浦 そこで部活に。

小松原 そうそう、初めての部活だったね。

永浦 周りからはどういう風に言われていましたか?

小松原 どうなんだろう。…でかいやつ。

永浦 昔から背は高かったんですか?

小松原 高い方だったね。中1でもう170㎝くらいあったんよね。で、中3で179㎝と、まあ10㎝くらい。高校で3㎝くらい伸びて、、そこで止まったんだけど。

永浦 大きいですね。あ、じゃあ、中学生の時とかに好きな野菜はありましたか?

小松原 ない!野菜は基本嫌いなんよね。けど玉ねぎは好きかな、ときゅうりと….だいこん。それぐらいかな。

永浦 ご飯は何が好きだったんですか?

小松原 ご飯はねぇ….牛乳。ご飯というより牛乳?

永浦 牛乳??

小松原 牛乳をね、1日2ℓくらい飲みよった。

永浦 1日???

小松原 うん。1日。本当に。高校生の時とかも、ご飯の時のお茶とか水とかの代わりに牛乳を飲みよったね。

永浦 それで背が伸びたんですかね。

小松原 うん。なのかもわからんし。家の冷蔵庫には5.6本入ってて、でもなくなるんよっていう感じだったね。あと、食事の面はうちのおかんが料理好きだし。学校の給食を作ってたから。その辺でバランスもやっぱりとれとったんかなっていう風に思う。

あとは中学校の担任の先生。3年間一緒で。もともと野球部の監督だったんだけど結構厳しかったんよね。

厳しいんだけど、1年生の時はお前ら勉強なんかせんでもいいけ、とりあえず慣れろっていう感じで、2年生からはちゃんと進路を考えて勉強を始めるぞ、3年生はもう勉強だけっていう先生で。あの当時先生の中で多分1番厳しかった。普通にしばかれて。バスケ部の顧問の先生でもあったし。

あと勉強だけじゃなくて。「給食を一切残すな」っていう。それはあったね。だけ、その先生になってから学校で残っとる給食は3年間ゼロ。廃棄なし。

永浦 すごい。

小松原 あれはすごいなって思った。

永浦 嫌いな食べ物があった時は無理やり頑張って食べる?

小松原 食え食えって。で、他の学年からも持ってくるけぇね。「お前ら食えよ~」って。だけ、めちゃくちゃ給食食いよったと思う。無理やりもあったね。もう食えません…って。で、先生は給食食わんのよ。みんなに配るの。

永浦 え、自分は?

小松原 理科の先生だったんだけど、味噌汁とかビーカーかなんかに入れてアルコールランプでやったりとか。そういう先生。自分のはあんまり食べんかったね先生は。

永浦 面白いですね。

小松原 毎日誰かに「お前これ食え」って言って、そういう感じだったね。で、全部配り終えたら他の学年のところに行って「残っとったで」って。だけゼロ。その3年間。そのあとはもう知らんけど、その間はずっと廃棄ゼロ。それはすごかったなと思う。そういう教えだったけぇ。

永浦 そこで食の大切さを学んだんですか?

小松原 それはやっぱり思うね。そこで食事って大事とか破棄するのがもったいないとかそんな感覚になってたんかな。うん、それはあるかもしれんね。

永浦 学校の部活以外で中学校は何かやってたりしました。

小松原 ないね。もう本当にバスケばっかり。高校もしかり。

永浦 あ、じゃあ高校に。高校は浜田ですか?

小松原 浜田の商業高校に。

永浦 商業高校ってどういうことをするんですか?

小松原 ええとね、情報処理。プログラミングとかやってたんですよ。

永浦 数字が得意だから?

小松原 いや、でもあんま好きじゃなかったかな。プログラミングはちょっと苦手だったね。文章を打つのが結構苦手なんですよ。国語もしかり。だからあんまり得意ではなかった。もちろん簿記とかそういうのもやるけどね。商業だから。

永浦 高校もバスケ部?

小松原 バスケ部。高校こそ本当にずっと部活があったから部活しに行ってるような感じだったかな、どっちかというと。やっぱ面白いし。

永浦 高校時代の一番の思い出は何ですか?

小松原 思い出はやっぱり部活じゃない?ずっとバカみたいにやっとったね。休みなくずっと部活してた。

永浦 どうしてそんなにバスケが楽しかったんですか?

小松原 何だろうね。走ることとかが好きってわけじゃないんだけど。種目にもよるけど、陸上って絶対限界があるじゃないですか。いくら足が速くても。でもバスケって頑張れば違ったスキルがアップできるんですよ。点とればいいとかちゃんと守ればいいとかルールの中で。だけ限界がないんですよ。100%シュート打ったら入るとかないけど、その確率を高める。100%を目指すっていう達成感があるかも。あと団体競技っていうのも面白いかもしれない。一人じゃなくてチームで。

永浦 人が好きですか?

小松原 人は好きですけど、あの、ブロックしがち。相手が来たら打ち解けるけど、自分からガツガツ行くタイプではない。

永浦 そうなんですか?

小松原 酔っとったら分からんけどね。高校生の時は自分でグイグイいくような感じではないね。

永浦 じゃあ友達が多いっていうわけでもなかったですか?

小松原 いや多かったんじゃないかな。

永浦 みんな大体友達?

小松原 そうだねえ。学年でもそうだけど、情報処理科ってどちらかというとレベルが高い、商業の中ではレベルが高くて。学年でのテストでも情報処理がトップなんよ。でも、うちらのクラスって変わっとって。ガリ勉のクラスじゃなくて、めちゃめちゃ明るいクラスだったんよ。

スポーツができるやつも多いし、だけ、先生らも「情報処理科ってこういう感じの雰囲気じゃないんだよね」ていう感じなんだけど、うちらのクラスだけ全然違った。めっちゃ明るかった。馬鹿なことも色々やって怒られたけど。だけ、クラスが良かったのかな。

永浦 じゃあ楽しかった?

小松原 うん、楽しかったね。部活も楽しいし、勉強はそうでもないけど日常の生活が楽しかったかな。

永浦 では高校卒業後のことをお聞きします。高校卒業後はどのような人生を?

小松原 高校卒業後は…僕は都会が嫌いなんですよ、人混み多いところが。バスケで推薦もあったんです。大学でね、あったんだけど断って。浜田の土木関係の、資材の販売や営業かつ配達とかもするんだけど、その会社にとりあえず行きました。理由っていうのはなくて、とりあえず市内のどこかで働ければいいかなぐらいだったかな。

永浦 何年くらい働いたんですか?

小松原 5年間。次の職に移るのも最低5年はいた方がいいよっていうのは言われたんよね。その会社でね。だから5年間はとりあえず頑張ろうかなみたいな。で、その会社が良ければよかったんだけど。その当時公共事業削減とかっていうのもあって。そうなると工事が少なくなるから、資材も出ていかないじゃないですか?だからこの業界で大丈夫なのかなって思ったのが一つと。

あとは会社の中でなんだけど、所長は営業は数字だからって言うんだけど。だけど、僕2年で係長より売り上げとったんですよ。1億まではいかんかったけど、7、8千万ぐらい売り上げあげて。でも結局年齢給みたいな。それがちょっとね、納得いかんくて。

それで会社的にも数字って言うんだったら、いや係長より売り上げてるのに係長の給料はいい。でも自分はあんまり変わらずみたいなのがなんか面白くないなって。それで頑張る気が失せたって感じかな。毎日20時とか21時とかまで仕事な感じで。なんか面白くないなみたいな。

で、その時に地元がやっぱり好きだから目を向けた時に、段々人が減る、農地が荒れてきてる、なんかこのままじゃまずいなって思って。僕のイメージする弥栄ではなくなってきてるなっていうのが、寂しい気持ちになったので。

その土地とか集落のみんなで一緒になってできることをやりたいなっていうのと。あとは、農地を何とかしないとって思いもあったので。だったら農業だなと。でも当時農業なんてそれ一本で生活できるわけないでしょ?みたいな雰囲気だったし、親にももちろん反対され。地域の人もまた小松原家が馬鹿なことをやりよるでみたいな。そんな感じで見られたよね。やっぱり最初はね。

普通の農業だとちょっと難しいかなと思うんだけど、そうじゃなくてその当時まだ有機農業っていうのがそこまで浸透していなかった。
生産者もまだ少なかったから。浜田市に有機のグループがあったんよ。今の有機の会。そこに弥栄の先輩もいて。バスケの。社会人になってもバスケはやってたので、一緒のチームだったし。それで「お前農業してみんか?」っていうので、ちょっと勉強してみようかなって。

でも僕、農業が一番嫌いだったの。ちっちゃい頃から。親の手伝いとかも農業絶対嫌だ!とかそういう感じだったけど、けど好き嫌いっていうよりかは、地域を何とかしたいっていうので農業を始めるっていう感じで。僕も農業研修生の制度で2年間研修を受けて。1年はそのグループのトップの農場に、半年ぐらいかな、行きながら自分のハウスを建てる段取りとかっていうのをやるっていう感じだね。

永浦 最初に地域のことを考え始めてから行動に移すまではどのくらいの期間があったんですか?何歳くらいの時に?

小松原 23歳の時にはもう会社を辞めて研修を受けようと思ったので、22歳くらいかな。考え始めて、会社を辞める1年半前くらいに農業しようかなみたいな感じだったね。

永浦 その時にはもう先輩にお話ししてたんですか?

小松原 うん、してた。

永浦 最初、農業を始めるってなった時に一番大変だったことは何ですか?

小松原 やっぱり金がない。事業を始めるのにも資金がないので、ほとんど借り入れだよね。個人で借りられる大体のマックスが3000万ぐらいってその時は言われてて。で、やっぱりマックスくらいまで行ったね。3000万くらい。その覚悟がある方はどうぞって感じのそういう世界なの。やり始めたらもうストップが効かない。もう投資もしちゃってるから。

僕の場合はここが地元だし、ここで何とかしたいし、そういう思いがあるから。別に例えば失敗した時でも家を一軒建てたと思えばいいや、みたいな。でも返していける自信もあったし。勢いだよね、本当。で、ちょうどその時に嫁さんと結婚して、独立する時に。で、一緒にやるっていう感じ。

永浦 農業研修を2年やった後に、小松ファームとして独立されたんですか?

小松原 いや、平成26年に法人にしたんですよ。それまでは個人。一応名前は小松ファームとしてつけていたけど、個人で。

永浦 奥さんはどういう反応だったんですか?

小松原 寿司を握っていたから、全然畑違いのところに行くことになって。で「農業できる?」って聞いたら「やったことないから分からない」っていう風に最初言われて。一緒にやってもらって助かってるけど、僕も正直分かんないですよ。でも研修を2年やって、これだったらなんかいけるかなっていうのも研修中に思った。

永浦 どういう時にやれるなって思ったんですか?

小松原 そうだな。最初の1年は分かんないから、がむしゃらに作業したりとか覚えていって。2年目からは逆に任されるようになって、それで結構これだったらいけるかなっていうのがあった。

永浦 自信に繋がる、、

小松原 そうそう。で、任されるようになって。もう受発注とかも全部やったよね。資材購入とかもやったし。で、そこにも従業員の方がいるんだけど、パートさんみたいな。その人たちへの指示もやったりとか。だけ、もう経営者みたいな感覚で2年目はやった。それをやらさせてもらえたけ、出来るなっていう感覚になったし。そこまで行くともうやっちゃるぞみたいな感じよね。

永浦 最初は何人から始めたんですか?

小松原 最初は僕と嫁と、あとおばあちゃんがたまに手伝いに来てくれて、っていう感じだった。作業も今の予冷庫があるところで。

永浦 あそこで?小さいですね。

小松原 そうそう元々予冷庫はなかった。

永浦 あそこを作業スペースに、

小松原 だった。で、スタートはとりあえずそこなんだけど。研修中にちょっと離れた三隅の方に「中古のハウスがあるけどいる?」っていう風に言われて、じゃあ「いります」って言って。休みの時に家族で解体しに行って、それを引っ張ってきて立てたのが集会所の前にあるハウス1・2・3というところなんだけど。それが一番最初に建てたハウス。

それは研修中の休みの日に建てた。で、研修のお金っていうのは全部そこの資材に充てたから、要はお金がないんですよ。一番助かったのは、家はとりあえずあるし、生活費も正直おんぶにだっこで。嫁ももうこっちにいるし。寿司屋の店長をやってたから、そっちに行ったり、休みの時はこっちに来たりしてた感じかな、研修中は。

事業をスタートする前に、もう一応ハウスが3棟あるので出荷はできるわけですよ。朝収穫して、野菜を置いといて。で、嫁が日中調製して。夕方になったら僕が帰ってきて、そのできたものを青果市場に持っていくみたいな感じ。

永浦 市場に。

小松原 そうそう。配達で。そういうのやっとったね。

永浦 売り出しに行ってたってことですか?契約を結ぶとかじゃなく?

小松原 いや。契約は結ぶ。結ぶんだけど、青果市場って結局持って行ったら競りになるんですよ。だから値段も乱高下ある。いい時もあるし、悪い時もある。

永浦 最初は何を作ったんですか?

小松原 小松菜。やっぱり作りやすいから。

永浦 小松菜から始めてそのあとはどうしたんですか?

小松原 小松菜、ほうれん草だったかな。1年目は、小松菜、ほうれん草、あと水菜の三品目をとりあえず頑張って作ろうと思って。その後にネギをちょっと増やして。

で、一年目にハウスを12棟建てたんですよ。だけ、中古のハウス3棟と12棟の合わせて15棟で一年目スタートって感じだった。2年目に9棟建てて、3年目に3棟。で、そこまででハウス面積で言うと50アールくらい、今の半分よね。ぐらいを1、2、3年に一気に建てた。元々10年の計画だったんだけど、短縮して3年でやったんよ。

永浦 もうやっちゃえ~ってなったんですか?

小松原 やっちゃえというよりはお金を借りるのに据え置き期間を2年取ってもらったんだけど、だからもう2年で売り上げを確保しないといけないっていうのがあったから、10年じゃ足らないんですよ。だから、計画を前倒しにして据え置いたところの分でとりあえず売上を確保して。後は地域の人もやっぱり巻き込んでやりたいっていうのでそこまでいった。家族だけだったらもちろんそこまでやってない。

永浦 何年目くらいから、修さんが最初に元気にしたいと思っていた弥栄がちょっと元気になってきたかもって思えたんですか?そういったタイミングはありましたか?

小松原 5年目くらい?法人にする前にそう感じたので、始めてから5年目かな。1、2年目は本当にがむしゃらで。自分のところを何が何でもやらなくちゃっていうので。3年目くらいから面積も増えて、ある程度安定してきたかなっていう。人に手伝って頂いたりして。


それから、近隣のところがうちの土地も使いんさいやっていう感じになってくるんよ。「もう米やめようと思うし使ってほしいんだけど。どう?」って言うけ、「ああ、いいんですか?」って。で、土地を貸してもらっている人も手伝いに来てくれたりとか。その辺が一番楽しかったかな。地域で一緒にやってるっていう感じがあって。

でも、だんだんそれも変わってきて。周りの目がようやく向いてるなっていうか、一緒になってできてるなって感覚が始めて5年。法人にした時に、今まで働いていた方が年配になられて「さすがにちょっとリタイアさせて」って言って、逆に地域に人がいなくなったんよね。一緒にやってもらえる人が少なくなってきてて。で、人がいないとやっぱ回していけないところがあって。そうなった時に技能実習生であったりとか研修生の人らも入ってくるようになって。で、今に至るって感じかな。

永浦 ありがとうございます。「有機農業」っていうものに対しての想いとかありますか?

小松原 有機農業への想い?昔、家庭菜園でおかんがほうれん草とか作っとったんだけど、すっごい苦かったんよね。ほうれん草とかえぐみがすごいっていうイメージがあったんだけど、今はそんなことない。それは栽培する人によって肥料のバランスが違うからで。うちのおかんも「有機だから美味しいんじゃない?」って言うんだけど。それ以前に肥料のバランスを考えて作るっていうのが面白いかな、有機農業とは別で。

自分の考えた肥料とか作業とかをやった時に野菜がばっちり美味しく出来たっていうのがめちゃくちゃ嬉しくて。僕は消毒とかを使えないけどそれでもちゃんとできるっていう。あと僕は有機農業から農業をスタートしていて、有機が当たり前だよねっていう感覚でいるから、それはもう苦にはならんし。でも面白いのはやっぱり自分がイメージしている通り野菜が出来たらやっぱり嬉しいよね。後は食べてくれる方が美味しいって言ってくれることが一番いいけど。

永浦 農家さんをやっていて一番嬉しいとかやりがいを感じる時はどんな時ですか?

小松原 やりがいは食べてくれる人が美味しいとか、やっぱり弥栄のものって美味しいねって言われる時。今でも浜田に納品する時にお客さんから言われるけん。「弥栄ってやっぱりお米も野菜も美味しいね」っていうのを直接聞くので。

でもそれって僕からスタートした情報ではなくて今まで弥栄でやっていた生産者の方がいたからそういった情報になってるわけじゃないですか。だからそれは嬉しく感じるし、それを崩すようなことをしたらいけないなっていうのもあるし。

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