「共存共栄」
_互いに助け合い、争うことなく共生し、共に繁栄すること。
まえがき
今回の聞き書きでは「やさか共同農場」の代表・佐藤大輔さんにお話を伺いました。
農業が身近にある環境で育ってきた佐藤さんは、地域のため、みんなのためにどんなことが出来るのかを考え続けています。
日々どんなことを考え、これから先どんな風に生きていきたいのかをお聞きしました。ぜひお読みください。
目次
現在:僕らはやめるとか、出来ないとかその選択をするのをやめたんです。作り続けるためには何をすればいいか。使命だって思うんですよ。
過去:古き良きものみたいなものに触れてですね、今の自分がやっぱり地域のおかげであることを気付いた時にやっぱ帰らなきゃなっていうのが。
未来:もっともっと自由に開かれて、色んな人たちと夢を語るような場が出来ればというか。それが輪としてどんどんもっと広がればなっていう風に思います。
現在:僕らはやめるとか、出来ないとかその選択をするのをやめたんです。作り続けるためには何をすればいいか。使命だって思うんですよ。
永浦 まずは現在どんなお仕事をしているかからお聞きします。
佐藤 現在はですね、やさか共同農場の代表取締役をやっております。
永浦 共同農場さんの説明をお願いします。
佐藤 共同農場はですね、今から約50年前にこの弥栄という地域に移住して始まった農場なんです。なので、ズブズブの素人集団だっていう風に今でも言ってますし。
構成メンバーの、今35人くらいの人たち、ほとんどの人たちが県外の地域外の人たちがいっぱいいて。元々、入村してきたというか。今のIターンだUターンだとか、そういう移住・定住みたいな言葉ができる前の時代に移り住んできた。
で、僕らが移住2世になるんですよ。もともと「共同体」っていう「どういう生き方が豊かなのか」みたいな思想の中で集まっていて、未だに部課長制を取ってないようなみんなで仲良く頑張ってやりましょうっていうそんなところでございます。
僕が代表だから社長だからって僕が偉いわけじゃないですから。基本的にはみんな大体同じで、そんなね、ちょっと分かりづらい組織かもしれないですね。
永浦 代表になられて何年くらいですか?
佐藤 今年でちょうど11年目か。10年過ぎたとこくらいです。
永浦 今、共同農場さんには何部署あって、何人くらいいらっしゃいますか?
佐藤 生産が、農業生産って言って、畑やったりハウスやったり、大豆とかお米っていう穀物をやったりっていう、外作業をする農業生産。僕らは農産って言うんですけど。と、もう一つはその出来た大豆だったりお米を原料とした加工部門と。大きく生産部は2つあります。で、人数も大体半々です。15人ずつくらいですね。
生産は大きく2つの柱で、もう1本「交流・研修」っていう3本目の柱を僕らは1番大切にしていて。要は、農業の本質的なところ、誰のために作っているんだとか、何のために作っているのかっていうようなところを大事にしています。農法論とかそういうこと以上に、食べてもらう人のために僕らは作っていると思うので、そういうことを大事にしようって思うと「交流」。
色々な人に弥栄に来てもらった畑で、農作業しながら僕らと思いを通じあって欲しいですし。逆に僕らも都市部に行って、台所まで行って、お母さんだったり組合員さん会員さんと一緒に色々な話をして、人と人が食べること、生きることとかを話せる環境を大事にしてるんです。なのでそういう「交流・研修」という柱にドンとしていて。3つの柱でやってます。
永浦 ありがとうございます。被っているかもしれませんが、会社としてのこだわりはありますか?
佐藤 こだわりはね、物言う生産者になろうと。ちゃんと情報を発信する、なんで美味しいのかとか、なんで美味しくないのかとか。何のために味噌を作っているのかって言うことを、それぞれが一人一人。僕ばっか喋るんじゃなくて、春に来た子もちゃんと自分で言葉を発する、言葉を持つっていうことを大事にしていて。
ここ5年くらいは、プラス地域の中で私はこうしたいんだ、僕はこうやって地域と共に歩みたいみたいなそういうところも大切にしていますね。
永浦 そのために何かしていることはありますか?
佐藤 惜しまず放出するっていうんですか。今まで割と50年くらいは地域に溶け込むのが難しくてですね。大体半分の人が応援してくれて、半分の人が反対してくれるっていうのがもうずっと続いていて。
永浦 反対もあるんですか?
佐藤 あります、あります。未だに。やっぱり地元の人になるには3世代、100年かかるって言われて、僕らまだ2世代なので。僕らの次の代、今の20代くらいの子たちが40代くらいになる時に初めて地元でちゃんと地域の人って言われるのかなとか、そう思ってます。ごめんなさい、返しが大体長くて、、。
永浦 いえいえ!ありがたいです。
佐藤 10年ビジョンを作ったんです。共同農場の10年後を考えようと。で、そういうのを作った時に共同農場の10年後は見えた。でもその時、弥栄は成り立っているのかっていった時に、結構危機的な状況で。
なので、僕は「地域社会人」って勝手に言ってるんですけど、週休3日を目指しています。1日の休みは自分を、体を休めるようにしましょう。
もう1日は家族がいたら家族サービスだし、いなければ自分に投資をする。遊びに行ってもいいし、映画を観てもいいし、何してもいい。引きこもってもなんでもいい。自分のためになる時間にして。
あとの1日は地元、地域のことをやりましょう。それこそ「や市」(月に一度ある弥栄の朝市)に出てもいいし、地域の人とお茶するでもいいし、体験村に行ってもいいし。地域のために何かしてくださいっていう。
永浦 良いですね。佐藤さん個人としてのこだわりはありますか?
佐藤 僕個人はもう、かっこいいお父ちゃんになろうと。色んな事があって僕は今の生き方と弥栄で暮らすことを選んだので、一生懸命でいないといけないと思っていて。子供たちにとって、恥じないようにというか。
やっぱ親父、おふくろもですけど、親がかっこいいっていいなと思って。じゃあそこは負けてらんないなっていうのがあります。嫌なことはできるだけやらないようにもしてます。
嫌なことは嫌だって言いながら、やりたくなくなってやめるので。やりたくないって言いながらやってます。なので、今やってることは基本的に好きなこととやらなきゃいけないことだと思ってます。おじさんともなるとそうなるんですよ。
昔ね、1970年代にここに入村してきたんですよ。その中のメンバーに父もいて。現会長で前代表なんですけど。1972年っていうとなんか想像します?
永浦 親が生まれた時ぐらい、ですかね。
佐藤 あ、そうかもしれないですね。今50歳くらい?
永浦 そうです、だと思います。
佐藤 72年、70年代前半っていうのは激動の時代で。「あさま山荘」とか知ってます。
永浦 はい。この間ちょうどそういう話をしてました。
佐藤 まさにその「あさま山荘事件」は72年ですし、「沖縄返還」とかも。本当にこう、日本が良くも悪くもワッと沸いていたっていうんですかね。若い人たちが自立することを求めていた時にここに来ているので、そういった時代背景も。
有機農業に深く関われば関わって、有機農業とはなんだ?みたいなことにハマってしまうとですね、色々なことを聞いたり読んだりするようになってくると思うんですよ。60年代とか、もっと遡るぐらいまでなってくると思うのでね。もしまぁ、どっかでよければね。
永浦 ちゃんと勉強したいですね。
佐藤 面白いですよ。思想的な部分が強いので、良いか悪いかそういった視点で見るんではなくて。現実として過去から学ばなければいけない部分もあると思うのでね。有機農業の根底にあったのは何だろうとかっていうところが、面白い。
割と今農法論になりつつあって、農薬を使わない、化学肥料を使わないとかそういうの、作物の持つ本来の力を十分に発揮して、みたいな。なんかよく分かんないじゃないですか。でもそれはね、実は有機農業の中の一部分でしかなくて、要は方法論です。
じゃあ、そもそもなんで有機農業ってものがあるのかとか、なんで農薬を使うのか、使わないのかっていうところが実は面白いし大切だよね。
永浦 そうですよね。ありがとうございます。話は変わりますが、プライベートでは何が好きですか?
佐藤 趣味がなくてですね、というよりも、趣味と仕事の境目がなくなってしまって。例えば味噌の話するともう止まらないんです、めちゃくちゃ好きで。個人的に十何キロとか仕込みます。
永浦 個人的に?
佐藤 そうです。まぁ会社の材料を使ってですけど。自分というか子供たちに仕込ませて。ちゃんと自分の家のお味噌は自分たちで作ったものを。生活の中に味噌がある感覚をもう刷り込ませておきたいんですよ、子供のうちに。
クリスマスとかお雛様があるような延長で、お味噌があるっていうのを徹底的にやってやろうと思って。もう僕がほっといてもね、子供らだけで仕込めます。わやくちゃですけど。それをね、40超えてくると、もう趣味ではなくて使命だと思ってるんですよ。
今あるお味噌って、あれは味噌っぽいやつで味噌ではないんです。スーパーとかの味噌コーナーに置いてあるのは、あんまり言うと怒られちゃうんですけど、速醸法って言って無理やり発酵させたものに添加物だったり、アルコールを付けて菌を殺して味噌っぽいやつとして販売していて。
元来古くから日本にあったお味噌ではないんですよ。やっぱりやさかみそもそうなんですけど、天然醸造、長期熟成っていう昔から本来あったお味噌、本当にスーパーフードって言われるようなものを。
これだけ異常気象になって、物価高になって、経済がどんどん悪くなると、やっぱりどんどん味噌屋さんって速醸法っていう新しくできた方法に切り替えてしまっているんですけど。
僕らはやめるとか、出来ないとかその選択をするのをやめたんです。作り続けるためには何をすればいいか。なんでもやめるっていう議論をすると盛り上がってすぐそっちにいくので、もうそれはしないんです。
もう、これは決めたことだから。どうやって作り続けて、どうやったらこれを次の世代、子供たちに引き継げるかを考える。なので使命だって思うんですよ。
永浦 実際そうやってるんですもんね、すごいな。
佐藤 そうなんですよ。色んな所の味噌も食べますしね。でも巡り巡ってやっぱりやさか味噌が美味いなって思って。
もうちょっとだけ味噌の話していいですか。僕らのお味噌もこの辺に住んでいたじいじ、ばあばに教えてもらったんですよ。元々学生運動してた人ですよ絶対。農業の知識なんか全くないもんが来てですね、開墾だ、農村だなんだって言って農業を始めると。
そうしたら何が起こるかっていうと、資金ショートです。金がなくなるんです。で、金がなくなって何をしていたかというと、ちょっと出稼ぎに行ってたんですよ。
その当時「過疎」って言葉はこの石見地域にできて。隣の隣の町の町長が昭和38年くかいかな、初めて過疎っていう言葉を使って。なのでもう50年前くらい、70年代からもう弥栄も人口5000人くらいいたのが3000人くらいまでガタンといって。今はもう1000人くらいですけど。
で、やっぱりこの地域で生きていこうと思ったら冬に産業を持たなきゃいけないので。冬の間に地域と一緒にどうにか生きていくために産業をもとうって言って炭焼きもしてましたし、わさびの栽培をしたり、タラの芽の栽培とか、平飼いの卵とかもやってましたね。
その中にお味噌もあったんですね。でも、教えてもらったのは地域のじいじばあば達からで。それのおかげで僕は今こうして生きていると言っても過言じゃないくらいで。
なので、僕らは佐藤味噌とか共同農場味噌が作りたいんじゃなくて、地域のお味噌。「やさかみそ」っていう地域のお味噌だから尚更残さないといけないし、その分僕らが地域に恩返しをするじゃないですけど、片想いかもしれないですけど、地域と歩むっていうんですかね、そういうのは僕らの中では当たり前な感覚でやってるんですよ。
まぁ使命です。これはもう趣味って言えないなって。
読書も頑張ってるんですけどね、本当もう字読むのが苦手で。そんな知らないです。映画も大好きで。映画もすごい観てたんですけど、最近はそんな暇もなくて。
今年から、古民家を1個もらえそうなので、ちょっとみんなでリノベーションをしようと。それを趣味にしようって言ってます。
永浦 いいですね。

過去:古き良きものみたいなものに触れてですね、今の自分がやっぱり地域のおかげであることを気付いた時にやっぱ帰らなきゃなっていうのが。
永浦 じゃあちょっと過去に遡っていきますね。今の佐藤さんが出来上がっていく過程を、、。まずは幼少期から。生まれは弥栄ですか?
佐藤 はい、僕は生まれも育ちもここで。昔はね、30人くらいの人とここで一緒に暮らしてました。こんな今の建物もなくて、もっとバラックみたいな感じで。こんなね(「俺たちの屋号はキョードータイ」という本を出してくださった)。
これはその当時の人たちが出されてて。なんていうのかな、一つ屋根の下で暮らしてましたね。ここ分かるかな、ログハウスが。ここに味里があるんですよ。僕体験村より先輩なんですからね。
衣食住をよく分からない人と共にしながら暮らして、っていうのが幼少期で。「共同体」っていう名前だったんです。地域の人たちから苗字みたいな、屋号って分かります?僕たちがもらった屋号が「共同体」だったんですよ。
来た当初、もうそれこそ70年代なので、急に山の中に若い人たちがこう集まりだして。もう公安にしっかりマークされて、見張られてましたね。そんな感じ。
その頃からもうお味噌やってて。子供の頃なんてひどいもんで、畑行ってきゅうりを取ってきて、味噌の蔵に行って。で、きゅうりをぷすっとやっても先っぽしかつかないじゃないですか、だからきゅうりを1回全部埋めて、もう全部味噌付けてそれを食べるみたいな。今では考えづらいですけど。昔はそんなんも全然できて。
今でいう農業研修って言ったらいいのかな?一番最初は「ワークキャンプ」っていう大学生とか大人たちが春と秋に10人前後くらいの人たちがみんなで農業をするみたいなのがあって。それがその後僕が小学生くらいの時に「コミューン学校」という名前になって。
永浦 コミューン。
佐藤 そう、共同体とかのことをコミューンって言ったりするんだけどね。 で、その後農芸学校っていう名前になった。
それぐらいで、僕は大学生になって、まぁ思春期で、その辺の田舎の方と一緒で東京に行ってビックになるんだ、お前らとは違うぞって言って大学に。
永浦 そうだったんですね、大学に。
佐藤 大学、もう頭悪かったんで、もう東京に行ければなんでもよくって。
永浦 じゃあ幼少期の頃から農業に関わるというか、農業の中にいたんですね。
佐藤 そうなんですよ。すごく特殊だって後から思いました。僕から言わせると他の家が特殊で僕が普通だったので。1つ屋根の下にお兄ちゃんやお姉ちゃんがいたりして。本当に1つ屋根の下だったんで、お風呂も1つだし、ご飯も大人と一緒にみたいな感じでしたね。だし、牛がいて豚もいて、鶏もいて、犬猫いてヤギいてみたいな。
永浦 いっぱいだ。
佐藤 家庭訪問の時に先生が何人かで来るんですよ、ちょっと怖がられて、とか。
それこそ今じゃネタですけど、遠足とかで持っていくお菓子があるじゃないですか。やっぱお菓子買ってもらえないんですよ。うちはね、パンなんですよ、天然酵母の。今でこそなんか価値ありますけど。昔はなんか酸っぱくて。はちみつも天然のやつなんでほぼ塗れないんですよ、固くて。
天然酵母のパンって酸っぱいんでちょっと火を通して食べるんですけど、それが冷めたらもう岩みたいな感じになるんですよ。それが遠足でのお菓子で。どうやったら友達のお菓子が食べれるかみたいな。
お弁当もね、本当彩りがなくてね。タコさんウィンナーとかね入ってたことないですよ。でもそれがなんて言うんですかね、貧乏とかいじめになるとかそういうのは全然なかったんですよ。それはそれでね、なんだったら人と違う優越感ですらありましたね。
それは多分、親に感謝するとこだなと思います。よくグれんかったねって言われましたけど。全然。
あとは家が玄米で。家っていうか、ここ?平成元年くらいに出来ているんですけど、それまではこの辺がバラックっていうか飯場?工事現場とかにあるプレハブみたいなものが段々にこうなっていて、そこでみんなで生活していたんです。
食堂みたいなのがあって、そこで3食みんなで食べるんですけど、基本玄米食なんですよ。お客さんが来ないと白米にならないんですよね。
さすると、食べ物の一番は何かというと、給食なんですよ。それもあったんだと思います。そうじゃなかったらね、学校に行きたいなって思わなかっただろうなと思って。学校は給食を食べに行く場所でしたね。
永浦 どういう子って言われてましたか?
佐藤 クソガキだったと思いますよ。僕が10年前に代表になった時も、地元のおばちゃんたちはちっちゃい頃から知ってるんで、「あの大ちゃんが社長さんになるなんて、世も末だねぇ」って。(笑)それはもう自信があります。クソガキだったと思います。子供とか見ても可愛いもんだなって思います。
永浦 子供の頃は何をして遊んでましたか?
佐藤 もうね、忙しくて。記憶にあるのは、その時期その時の遊びっていうのがあって。この山に5、6か所くらいに基地があって。例えば今の時期だったら段々川遊びが楽しくなってくる時期で。魚が動き出してみたいな、ことであったり。
生活の場が色んな遊び場になっていて、この辺の山のことだったら本当に詳しいというか、普通に遊んでいたので。あそこに行ったらあれがあって、これがあって。多分食べ物には飢えてたんだろうなと思います。春は山菜を採る、もうすぐしたら木苺だとか、桑の実が採れてとか。採って食べてましたね。
本当に忙しかったです。ゲームとかなかったですしね。おもちゃっていうおもちゃもなかったですし。その季節季節でした。子供に逆にそういう遊びをさせたいなっていうのは思います。今だとね、キャンプとかになるのかな?っていう感覚ですけど。
大学生とかがね、去年来てて、川一緒に行きたいって言って。「おつる滝」とか分かります?
永浦 まだ行ったことないんです。
佐藤 全然見れるんですよ。「ここ行っても大丈夫です?」って言われて、考えろや自分で~みたいな。そんな感覚があるんですよね。
子供もやっぱりあるんですよ。弥栄で育った子が、語弊がありますけど、学力とか絶対に無理だと思います。都市部の子たちが勉強に費やしてる時間だったり、あとは与えられる環境っていうんですか。弥栄で塾に行こうと思ったら大変ですけど、都会はもう選び放題じゃないですか。
そんな環境の中で、弥栄で育つとか地方で育つっていう、プライドじゃないですけど。要はすごく頭のいいやつも、すごい仕事出来るやつもごまんといるじゃないですか。都会に出て、外に出たら。
その時に「みんなには悪いけど、山遊びは負けないわ」とか「クワガタ持たしたら私が一番よ」みたいな。そういうプライドを弥栄で育った子にも持ってほしいですよね。そのためには、やっぱり大人も満喫するしかないんだろうと思うんですよね。
永浦 たしかに。ちなみに、中学校も弥栄ですか?
佐藤 弥栄中です。
永浦 何部ですか?
佐藤 僕ね、バスケ。中学はね、もう本当にバスケに明け暮れてましたね。寮だったんですよ。僕らの頃はまだ寮があって。2年の途中でなくなっちゃったんですけど。
永浦 そうなんですか?
佐藤 中学寮があって。「奥の子」って言われるんですけど。山奥の子たちは寮生って言って寮には入るんですよ。なので、親元は中学校で離れるんです。本当にバスケばっかりしてましたね。
永浦 高校はどうでしたか?
佐藤 高校はね、農業高校に。
永浦 浜田ですか?
佐藤 益田に。浜田にはないんですよ。益田農林っていうなんて言うんだろうな、どこにでもある農業高校というか。僕の頃はね、まだ農業高校って荒れてたんですよ。なので、入学して1ヶ月くらいはもう辞めたくてしょうがなかったですね。枕濡らしてっていう感じでしたね。
永浦 高校も寮だったんですか?
佐藤 はい、高校も。特にね、ほんっとにひどくて、鍛えられましたね。ただ多分ずっと集団生活してたんで、そのハードルは低かったと思います。寮から寮みたいな。むしろ本当に自然に、また寮か~っていう感じで。
むしろ今の方が苦労するかもしれないですね。一緒にこう暮らすとかってなると。距離感が難しいですね、人との距離の取り方あんまり分かってないんだと思うんです。
楽しかったですけど、中学から1人だけだったんですよ、みんな大体浜田の高校に行って、あとはちらほら遠くに行く人もいて。たまに僕みたいなその高校には1人だけっていうのがあって。なので、新たなコミュニティが広がるっていうんですか。そういうのは楽しかったですね。
永浦 農業はもうずっとやろうっていう感じだったんですか?
佐藤 中学2年生の時に。
最近中学でお話しする機会があって、僕はうっすらとしか覚えてないんですけど、中2の時の担任の先生に「お前は、将来農業かどうかは分からないけど、絶対に俺は社長になるんだって言い張ってた」って言われて。確かにそれはそうだったなって。
共同体ってその頃ただ単に農業とかモノを生産しているだけじゃなかったので、俗にいう農業ともまた感覚が違って。それこそ、稼ぐことにこだわっていたわけでもなかったし、農業生産しながら、畜産もやって、お味噌作ったり、加工もあったりで。毎月どこかの人が交流会だなんだって人がやたらめったら来て、みたいな。
そういう環境の中にはいずれ戻りたいなっていうのは中学くらいまではありましたね。高校生になったらもう嫌でした。
永浦 農業高校ではどういうことをしてたんですか?
佐藤 基本的には農業なんですけど、農業って実はすごく幅が広くてですね。農業生産を勉強するのか、農業経済を勉強するのかとか。で、また農業の中にも畑作もあれば稲作もあって。
1年生の時は浅く広く色んな勉強をするんです。で、2年生になってから段々専門的になっていって。僕はね、花の勉強をしてました。単純に女子が多いから。はい、本当にそういう子でした。
永浦 じゃあ花の勉強をしてたんですね。
佐藤 花の勉強してましたね。
永浦 今もお詳しいですか?
佐藤 いやぁ、詳しかった、ですね。今は全然。嫌いじゃないですけど、全然分からないですね。僕らの頃で言うとガーデニングプランナーじゃないですけど、どういう風なお庭に仕上げていくかとか、花壇をどうしていくかみたいな勉強をしてましたね。儲かりそうじゃないですか?なんか、お金持ちしかそんなんせんやろとかいう理由で勉強しました。
永浦 そういうのがあるんですね。
佐藤 そうなんです、実は。先生がたまたまそういうのに詳しい方がいて。果樹とかもあって面白かったですよ。田んぼとか。
ただ、農家の息子もいれば、今まで農業もしたことない、土も触ったこともないみたいな人らと一緒にやるんで。大体こう田んぼとかの授業があると、バックレるんですよ。で、大体一緒にバックレるのは農家の息子で。
家で散々やってきて、なんで学校に来てまでしなきゃならないんだって。手植えとかね、今でこそしますけど、当時は手植えなんかなんでせないかんのやって言って。手刈りとかも、コンバインがあるやろって言ってね。そんな感じでした。
永浦 そんな高校生活。じゃあ、大学、、、は東京に?
佐藤 そうなんです。厳密に言うと東京じゃなくて神奈川県厚木市なんですけど。
永浦 あ、厚木だったんですね。
佐藤 いい田舎でしょ。
永浦 いいですね。すごい都会なわけじゃなく。何系の、農業系の大学ですか?
佐藤 農業系です。大根持って踊るところです。頭ではね、行けなかったので。農業生産者枠みたいな、推薦ですね。面接と小論文と。もう絶対に受かる自信があったので。
「僕落とすわけないですよね?」とか普通に言う子だったんですよ。「本当に任せてください、日本の農業を!」みたいに言う子でした。結構、怒られましたね、やっぱり。
永浦 大学生活はどうでしたか?楽しかったですか?
佐藤 大学生活はね、本当に勉強しなかったですね。
永浦 遊んでましたか?
佐藤 遊んでました。週6でバイトしてました。
永浦 なんのバイトしてたんですか?
佐藤 アミューズメントパークです。
永浦 ゲームセンターとか?
佐藤 そうです、ゲームセンター。元々はビリヤードにハマって。でも、ビリヤード場って時給が安いんですよ。なんで、ビリヤード場がある、時給の高そう、モテそうなお店を探してたんです。そしたらプールバーって分かります?バーカウンターがあって、ビリヤード台が何台かあったりして。カウンターでお酒出しながらっていう。
永浦 じゃあバーカウンター的なアミューズメントパーク的な。
佐藤 本社はゲームセンターとボーリング場とカラオケをやっているそういう複合施設だったんですよ。僕は知らなくて。ほとんどビリヤード場では働かせてもらえず。そこはね、もうちょっとこう品のある人で。だから、ゲームセンターですよ。地下のゲーセンで。…厚木行ったことありますか?
永浦 あります!
佐藤 本当にもうろくでもない街ですよ。大体町田から厚木までって今でこそベッドタウンみたいないい顔してますけど。ちなみに、どちら出身なんですか?
永浦 私は出身が埼玉なんですけど、厚木は何回か仕事で行ったことがあります。山だな~って思いました。
佐藤 山ですよ。本厚木の駅の周りが賑やかなだけで、東京とかで弾かれてしまったやんちゃな子たちが集まるので、本当にろくでもない、、。
永浦 そうなんですか?
佐藤 でした。でもまぁバイトしたり、部活に明け暮れて。
永浦 部活は何してたんですか?バスケ?
佐藤 いや、統一本部っていう。
永浦 何をするんですか?
佐藤 主は生徒会みたいなのがあって、生徒会と学生の間にいる実行部隊みたいなことをやる部で。専属は3、40人くらいしか部員はいないんですけど、学祭の時には100人以上にばっと膨らむようなそんな変な部活でしたね。
永浦 何をしていたんですか?
佐藤 学祭に向けて基本的に動くんですけど、色んな企画書を出したり、宣伝活動をしたり、あとは学校行事の色んな実働部隊としてやってましたね。
学祭が多かったですかね。学祭の時は3ヶ月くらい学校に泊まり込みで。神輿とか作るんですよ。1ヶ月くらいかけて全部で15学科あるんですけど、部活の人たちで20個くらいお神輿を手作りで作って。で、学祭の最後の夜にそれを燃やすんです。
で、燃えてる神輿の間をこう大根踊り、「青山ほとり」って言うんですけど。それを学祭の回数分踊って。一応踊りのルールがあって、ちゃんと踊れてない人は弾かれていくんです。そしたら、その年の年男と年女が決まるみたいな。それ見てみんな泣くっていう。
今も多分やってるんじゃないかな。を、やってました。でもそう意味でいうと、本気で遊んだと思います。酒も1番飲みましたし。
永浦 いいですね、大学生。
佐藤 大学生してましたね。楽しかったですね。
永浦 そこから、社会人ですか?
佐藤 社会人してないんですよ。
永浦 そのまま弥栄に戻ってきたんですか?
佐藤 そうなんですよ。卒論を書かないと卒業できないから、僕も書いていて。肥料の勉強をしてたので、肥料のことを書いてたんですけど。
その時弥栄がメディアにも露出して、全国で注目を浴びている時で。営農組織、集落営農とかが弥栄が日本を先駆けてやってたんですよ。その中で、転作大豆って分かります?お米が余ってたんで、国が米を作るなって言ったんです。
米作らなかったらお金あげるよって。さらに米作らないで大豆を作ってくれたらもっとあげるよ。それをグループでやったらもっともっとあげるよ、みたいなそういうことがあったんです。
だったら、みんなでお米の代わりに大豆を作って、その大豆でお味噌だったり豆腐だったり、色んな加工品を作っていこうっていう。本当に集落営農組織が中心になって六次産業化するっていうのは、多分それが始まりだったんだと思うんですよ。
それが弥栄であったせいで、NHKとかにも出てましたし、メディアとかにも露出して。学校でもやっぱりバレるようになってですね。いよいよ自分の研究室のお世話になっている先生にもそれがバレて、「これお前の親父じゃないのか?」っていう。
ただ現会長とはね、そういう親子の会話をしたことはほとんどなくてですね。朝から晩まで現場に行って家にはいないし、いても年間100文字も言葉は交わさないんじゃないかっていう。そのまま中学校から家を出ているので。こっちに帰ってくるまで誕生日も何にも知らなったですね。
それぐらいな距離感。それ以上に弥栄が語れなかったんですよ。
弥栄ってどんなところだ?お前の故郷だろって言われても、いやまぁうん。そんなにいいところじゃないですよって。学生運動とか共同体の歴史のことも全然分かってなくて。
それを怒られたっていうのもありますけど、もう1回ちゃんと自分の故郷を勉強しろって卒論の題名が変えられて、弥栄について卒論書けって言われたのがきっかけでしたかね。
そうするとね、なんか面白そうなことやってるなって思いながらね、でもすぐに出て行こうと思ってたんですよ。それでも、現会長からは一度も帰ってこいとは言われなったですね。周りの人から、今こんな状況で村がこうなってるから帰ってこいって、その時の専務みたいな人から声をかけてもらって。
現会長とお話しして、その時に「帰るんだったら車を買ってくれ」って言って。車買ってくれたら俺帰ろうかなみたいなね。そんな感じで言って。そしたら会社はふざけるなと。
でも、なんだかんだ言って半分くらい出してもらって、買ってもらって。現会長が「俺が選んだ車にお前は乗れ」って言われて、嫌だ、それならいらないって。で、「多摩」ナンバーが欲しくてですね。かっこよくないですか、多摩。
永浦 画数多いですもんね。
佐藤 そう、しかも弥栄でですよ。で、買ったのに、手違いで「相模」になっちゃって。それに乗って帰ってきたんですけど、みんなに相撲ってばかにされて。そんなんでした。でも全く帰ろうなんて思ってなくて。
きっかけはそうですね。初めて弥栄のこととか、農業のこととか、農場の歴史っていうものに触れた時に、やっぱりすごく魅力を感じて。
フォークソングとか聴いたりします?「赤ちょうちん」とか「22歳の別れ」とかああいうのを聴いた時にちょっとこうキュンと来るようなイメージに近いかもしれないですね。
古き良きものみたいなものに触れてですね、今言った今の自分がやっぱり地域のおかげであることを気付いた時にやっぱ帰らなきゃなっていうのが。でも嫌ならすぐ出て行こうって思ってました。
永浦 実際に本腰が入るというか、やる気になったのは何歳くらいの時なんですか?
佐藤 最近かもしれないですね。…いやそんなこともないか。すっごく葛藤はありましたね。9年目とかが1番ひどかったかもしれないですね。10年前くらいですか。本当に出て行こうって思ってました。
結構3年周期であって。最初の3年はもうがむしゃらなんですよ。で、3年目くらいにやっぱ自我みたいなのが出てきて、俺ならもっとこうしたい、けど出来ない、みたいな。
で、色んな人から教えを説かれて。ここでやらなきゃダメだって言って、また3年頑張るじゃないですか。6年目になったらさらにもっとこうしたいとか思いがあって。でもやっぱり色んな人から思い上がるなであったり、今地域はこんなことをしなきゃで。
9年目が1番。家族のこととか色々あった時期で、余計に。でも、それぐらいからです。本気になったと言いますか。さっき言ったように出来るだけ嫌なことをやらないようにしていく、嫌なことも変えていく。自分たちのやりたいことをやろうってなったのは10年前くらいからですかね。
それまではなんでも間でも噛みついてましたね。感じ悪いやつと思われてたと思います。そんなんだった。
やっぱり、肩が張ってたんだと思うんですよ。親の世代が作った土台の上でぬくぬくやってら~みたいな、そういう風には思われたくないみたいな。で、親のコピーだとかそんな風にも言われたくない。みたいなね。意地みたいになってたんだと思いますね。
歳をとるっていうのは面白いなと思います。今じゃなんとも思わないです。むしろ、そういわれたらありがとうございますって言うくらい。
永浦 ありがとうございます。

未来:もっともっと自由に開かれて、色んな人たちと夢を語るような場が出来ればというか。それが輪としてどんどんもっと広がればなっていう風に思います。
永浦 それでは未来の話をしてもいいですか?
佐藤 もちろん。いいですよ。
永浦 佐藤さんはこれからどうなっていきたいかっていうのと、共同農場としてどうなっていきたいかっていうのをお聞きしたいです。
佐藤 イコールみたいなところもあるんだけど。僕は1つの夢が社長になることだって言って、少なからずそれが今叶ったんで。そうであればですね、もう一つは校長先生になりたいって言っていて。教職と迷ったんです。
将来はやっぱり学校を作りたいんです。学校っていっても今みたいな学校じゃなくてですね、もっと自由で開かれて、人生を学びの場として楽しむ。そうでもいいんじゃないかっていう。
本質的に生きることは食べることだとか、誰かを大切に想って、大切に想われるっていうようなことを学べるような、そんな学校ができたらなっていうのがあります。かっこいいじゃないですか?
永浦 いいですね。
佐藤 子供に触れることには僕自身も積極的に行くようにしていて。そこで一応農業とかのジャンルで呼ばれるんですけど、教科書に載っているような農業の実態を話したってどれだけ伝わるんだっていう。
それよりも、「自然に農業がある」っていうんですけど、農業やってる人も普通の人だよっていうような、そんなこととか。
絶対みんな食べるじゃないですか、食べ物って工業製品とは違うので。誰かがちゃんと思いを持って作られているもの。そういうことを、いかに伝えるか。脅しにならないように、優しく伝えられるかみたいな。そういうことはすごく気を遣うので。
それが日常的に何か出来たらっていうんですかね。週に一回とか月一かもしれないし、年に4回くらいしかできんかもしれないですけど。そういうことができたらなって思っております。
弥栄のビジョンマップをみんなで話していて、体験村があったりするんですけど。僕らは例えば共同農場、味噌屋ではなくて、もっと味噌を楽しむような場所になって欲しい。例えば、今僕らのお味噌を食べていただいているお客様たちが弥栄に来て、うちで味噌を仕込んで、それを送ったり、また取りに来てくれたり。
永浦 面白い、、。
佐藤 そうなんですよ。昔の生協運動って何かっていうと、農薬とか使ってないみてくれの野菜が本当に売れない。でも味は抜群だし、健康にもいいし、体にもいい。そういった時に何が起こったかというと、集団購入って言うのかな。
要はお母さんたちが10人集まるから、そこにジャガイモだったら泥付きでいいから20キロ持ってきなさいって。それを私たちが均等にお金出して分けるからって。産地、農村と消費者団体みたいなことが直接的に結びついて、これが産直運動って言って、「産地直送」。
今では産地直送っていう文言をスーパーでもどこでも書いてあると思うんですけど、元々はそうだったんです。農家さんたちがお米から何からトラックに積んで、それが団地に行くんです。団地の中のお母さんたちがそれを分けていく、みたいな。そんなこともあればなと思っていて。
例えば、学校の単位くらいがちょうどいいなと思うんですけど。校区の単位くらいだと思っているよりもちっちゃいじゃないですか。その家族の人たちみんな味噌を仕込みにに来てもらって。それが1トンなら1トンのお味噌を。皆さんのところに返しに行くみたいな。みんなのお味噌ですかね。うちのお味噌は、実は弥栄村っていうところに仕込んでおいてあるのっていう。
もっと突きつめると、大豆とお米から作りませんか?って。2年生の授業では大豆とお米を作りましょうっていう。それが表現大学のイメージに近いような形で。ずっと暮らさなくても、たまに来たりとか、年に数回訪れるっていうような。
「エディブルスクールヤード」っていう学校の校庭の一部を畑に変えましょう、ガーデンにしましょうっていうアメリカで生まれた運動なんですけど。畑は全ての教育の場所になると。そこで全ての授業をやります、っていう運動があって。日本では東北の方で結構やられてるんです。「シードバンク」っていう。
地種、そこの地域にしかない種を法律が改正されてしまって、それを守るのが今難しくなったんですね。で、そういう種を守るためにその地域の学校でその野菜を作り続けるっていう。
さらに校庭側でそれをつくることによって、子供たちが自分も生き物で食べ物も生き物、同じ生き物だっていう。生命を採取するっていう。農業は生き物として一番、なんて言うんでしょう。汚い職業だと思ってるんです。
例えば、何が好きですか?なんでも。野菜でも果物でも。
永浦 トマトですかね。
佐藤 トマトはどうして実をならすんだと思います?
永浦 う~ん…
佐藤 トマトは成長して人間に頼まれたわけでもなく、子孫を残すためなんです。それは本能が本能のために実をならして子孫を残すために大きくなって、それを僕らは食べてですよ。美味いだ、不味いだ、品種はこうしよう、今年はどうだっていう。言ってみれば生き物的にはまぁ身勝手なわけですよね。
そうなのであれば、僕らが一生懸命にならないと駄目だと思っています。一生懸命作って、一生懸命食べて、そのことをちゃんと伝えなきゃいけない。そういう学校。
ですから、それは畑の中でやっぱり出来るんだなって思うんですよ。僕はバカだったし、運動神経も悪かったんですね。でも、桑とか鎌とかを持たせたら一番なんですよ。そういう畑の無限と言いますかね。みんなが野菜と同じ目線になると、人間の優劣なんか大したことではなくなるんですよ。
ちょっと足が速いとか、勉強が出来るとか、そんなもの畑の中ではかなりどうでもいいことなんですよね。それもあって、土の上の世界が成り立っている感覚が畑にはあるっていう考え方なんです。それが僕はすごく好きで。
弥栄小学校の生徒も今40人くらいしかいないんですよ。で、あんなにでかい校庭があって。理にかなってないんです。だから校庭の1/3を畑に変えませんか?っていう。それも学校側に。学校から遠い側はダメなんですよ。わざわざ畑に行くんじゃなくて、毎朝畑を通って子供たちが学校の中に入って来るみたいな。
なんだったら朝ごはんでちょっと野菜が足りなかったからミニトマトつまんでくるぐらいの、そんな距離感。6年間野菜、お米を作ったらもう作れますよ。経済ベースにすると難しいですけど。
野菜を見て今が旬とか元気そうとかが分かるようになってほしいんですよね。そういう感覚になって初めて有機農業とかその農法論、農薬を使う、使わないっていうちゃんとした判断が出来るんじゃないかな。
それって何かっていうと、畑がただただモノを生産するんじゃなくて、教えの場と言いますかね。そういう農場になりたいなって思っております。味噌屋はアミューズメントパークとして。畑は畑で。
結局ここは農業産地じゃないんですよ。僕らのところに農業の勉強したいんですってお問い合わせだったり、来ていただく人たちみんなに言ってるんですけど。
よりお金を稼ぎたくて、経済的な農業をしたいんだったらいくらでも紹介しますって。儲けてる農家さんとか受け入れをしてくれるところとか。
例えばじゃがいも、玉ねぎ、人参っていう根菜類を勉強したいっていうんであれば、それは長崎とか九州がいいですよって言いますし。みかんとか柑橘、レモンとか、そういうのを勉強したいのであれば愛媛の団体を紹介します。事業的に、国の事業をとって動かしたいんだっていうんであればそういう人を紹介しますし。
じゃあ、僕らのところに来て何が一番勉強になるかって言うと、そういうただモノを作るんじゃなくて、何でモノを作るか。食べてくれる生活者の方、店員さんとかバイヤーとか僕らのものを売ってくれる、伝えてくれる人がいる。
この三方で三方が自立して自分たちがどうあったら幸せに生きれるのか?っていうのを考え続けるのが僕らの農業だっていう。なので、僕らは食べてくれる人たちがいるから作り続けるし、僕らのこういう思いに共感して売ってくれる人たちがいるから作り続けてる。
だから、絶対売れよ、文句言わずに食えよって言うし。逆もあるんですよ。私たちが食べるんだからちゃんと作んなさいよ、俺たちが売るけどちゃんと作ってよって。よくないのは依存することなんですよ。お互いに足を引っ張りあう依存、どこかがいなければ生きていけないっていうのは依存の関係で、だからあくまでも自立なんです。
一人で日本の農業を良くしたいとかじゃなくて、みんながどうやったら幸せになれるのかな?っていう、そういうのを大切にした農業現場です。
だから、それを面白いと思わないんだったら来ない方がいいですって言ってます。色んな矛盾と戦うことになるんで。能率が悪いことだってやるし、すごい仕事をこなす人が給料高いかって言ったらそうでもないので。もっともっと人は大切にするものがあると思っている、っていう農場を作ろうと思っております。
永浦 素敵ですね。
佐藤 いやぁ、楽しいはずです。でも僕がそうだったんじゃなしに、共同体ってものがみんなで幸せになろうっていうものだったと思うんです。そんなところってなかなかないのかなって思って。じゃあ僕らはそこを目指そうっていう。
味噌も野菜ももう崖っぷちで、僕らが辞めたらなくなるんじゃないかっていう覚悟で。使命を持って。なのでね、割と今でも誰が来てもウェルカムというかそんな感じではありますね。
あとは、僕らは今、中間世代って言われる世代で。あと20年なんですよね。65歳になったら次のことを考えて動かないといけないので。今言った話が「有機農業運動」っていってるんですよ。こういう生き方を次の20代、30代の子たちに引き継いでいかないと。僕らも引き継いでもらったと思っているので。
最低限、僕らはそれをやるのは使命かなって思って、今は出来るだけみんなにもそういう話はしようと思ってます。どれくらい伝わっているか分からないですけどね。はい、こんな農場です。
永浦 ありがとうございます。最後に何か宣伝とか伝えたいことはありますか?
佐藤 そうですね。…否定せずに広がりを楽しむ生き方みたいなのをね。色んなものを見ていて思うのは、経済がスモールというか、私たちだけで楽しもうじゃないですけど、少しそういう思考があるように思っていて。別にいいじゃないかと。
ちょっと考えが違ったり、思想が違ったり、気に入らないことがあってもね、いずれそれは分かち合うのかもしれないですし。だからもっともっと自由に開かれて、色んな人たちと夢を語るような場が出来ればというか。それが輪としてどんどんもっと広がればなっていう風に思います。
永浦 ありがとうございます。
佐藤 分かりずらかったですよね。
永浦 貴重なお話でした。面白かったです。ありがとうございました。
あとがき
佐藤さんとしっかりお話しするのは今回が初めてだったのですが、全く知らなかったお話を聞くことが出来てよかったです。農業をするうえで、ただ作るだけでなく、目的やどんな想いで作るか、ということがいかに大切なのか考えるきっかけとなりました。また、「みんなが野菜と同じ目線になると人間の優劣なんて大したことなくなる」という言葉が印象的でした。佐藤さんが校長先生をする学校が出来たら、行ってみたいです!
この記事を読んで興味を持ってくださった方がいたら、弥栄で一緒に味噌を作ってみませんか?
永浦
取材日 25.05.28
